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P215-217
ところで新聞記者連の面接を拒絶していた村上慈海師は、七月三日午後に、当時産経新聞京都支局員だった福田定一とだけ隠寮で会見した。福田定一記者は、のちの司馬遼太郎氏である。司馬さんに当日のことを思い出してもらった記録に一ヵ所気になることがあるので、ここに私のメモをそのまま出す。 「二日の早暁のことはようおぼえとる。ちょうど自分は宿直で、寝とったところをおこされた。金閣が焼けとるいうんで飛んでいったけど、その時はもう縄がはってあって野次馬もいっぱいやったし、小僧の放火やとわかっておったんで、和尚に面会を申し込むと和尚は会わんという。ところが、三日になって会えた。自分は当時、社会部記者ではなく、宗教担当やったで慈海さんとは前に会うてたこともあって、顔をおぼえられとった。それで、特別な処置に出てくれたと思うのやが、とにかく、隠寮で自分にだけ会うてくれることになって……おそらく、新聞記者の中で、いちばん先に慈海さんの心境をきいたのは自分やったと思う。自分は庫裡に入った。小僧か誰ぞの案内やったと思うが、いまでも、不思議なことが眼にのこっている。それは、庫裡の板の間の壁にかけてあった黒板の字や。白墨で、『また焼いたるぞ』とよめる。何ともいえん字でな。走り書きしてあるその字がとびこんできた時、異常な気分になった。それを見てから和尚に会うた。慈海さんは、憔悴していて、無口な人やから、こっちの質問に、これといったことをこたえるお方やなかった。ただ、徒弟が焼いたことを申しわけないと、謝罪してはるだけで、これといったことはきけんかった。それで、いまし方庫裡の黒板に書いてあった字を思い出したもんやから問うてみた。すると、慈海さんは、そんなことは知らなんだ様子で、びっくりなさって、おぼえがない、というとられた。ずいぶん歳月も経って、昔のことになってしもうておるので、これぐらいしか、面接の日の記憶は思い出せないが、あの黒板の字だけが今日もあざやかにあるなァ」 司馬さんは、こう私に語ったあとで、 「これは自分の推察にすぎないが、金閣を焼いた犯人の小僧が、どういう動機やったか、それはかんたんにはいえないにしても、金閣寺には、もう一つ暗いところが口をあけてたような気がしたな。それは何やろか。黒板の走り書き見たときに、そんなことが自分の頭をよぎったな」 私のメモはこれで終っている。この稿を書くにあたって、私が当時の京都市内の新聞記者で、現場に急行した一人が司馬遼太郎さんだったときいたので、伺ったものだが、メモの日附は昭和五十三年一月十七日になっている。 金閣寺庫裡には今日もこの黒板はのこっているが、司馬遼太郎さんの見た字はもちろんない、誰がいったいそんな物騒なことを書いたのだろう。疑問は私にものこった。三日はすでに林養賢は逮捕され、西陣署にいた時である。養賢が書いたものだろうか。かりに養賢がそれを書いたのなら、養賢の自供にそれがあるはずだが、一切の供述にない。とすると、「また焼いたるぞ」という文の意味からして、金閣の炎上を見た者が、そういうことばを走り書きしたというしかない。小僧の名も、使用人の名も、私はすでに記してきている。その中の誰かが書いたと判定するしかないが、このことは今まで不問に付されて、謎のまま残っているのである。 引自第215页
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