平和都市ヒロシマは一人の被曝者も救えなかった
1945年8月、広島、長崎に原子爆弾が投下され、一瞬にして十万人を超える市民を殺した。原爆は2つの都市を焦土と化し、戦後も放射能障害で20万人の被曝者を殺した。だが、B29は理由もなく原爆を投下したのではない。日本が原爆投下の残虐さを訴えれば、米国は真珠湾の「奇襲攻撃」で反論する。7月26日、連合軍のポツダム宣言は「無条件降伏」を勧告したが、日本政府は天皇制の存続を意味する「国体護持」を認めなければ受諾できないと拒否し、8月6日に広島、9日に長崎に原爆を投下され、ついに無条件降伏したのである。 天皇制を救うために、20数万人が悲惨な原爆の犠牲にされたのである。戦後、マッカーサーの占領統治に利用され、「国民統合の象徴」という皇位に居座った天皇は、70年の国際記者会見で「原爆投下をどう思うか」と中国新聞記者に質問され、「戦争だから仕方なかった」と答え、イギリス人記者の戦争責任への質問には、「そのような言葉のアヤについては、私はそういう文学方面をあまり研究もしていないのでよくわかりません……」と答えた。 引自第16页 戦前の日本は満州事変、支那事変などを口実にアジア諸国を侵略し、国際連盟から撤退勧告を受けたが拒否し、仏印進駐などに対する報復措置として石油を禁輸された。そして「石油のあるうちに」と真珠湾を奇襲攻撃し、さらに東南アジア西南太平洋諸島を侵略し、連合軍を相手に勝算のない戦争に突入し、3千万人のアジア人と連合軍、320万人の自国民と兵を犠牲にし、原爆投下によって無残な敗戦を迎えた。その戦争は陸海軍の大元帥である天皇の命令ではじまり、天皇を救うために原爆の洗礼を受けて終わったのである。
ヒロシマは侵略戦争の過去の原罪を隠蔽するために、戦後の日本が構築した「虚構の平和都市」だった。その嘘が被害者意識一辺倒の戦後をつくり、侵略戦争の総括も、戦争責任の追及も放棄して、日本人の戦争認識を誤らせた。ヒロシマは平和公園、原爆病院、負の世界遺産である「原爆ドーム」まで象徴にして平和を訴え続けたが、戦後60年間、一つの原爆患者も救えなかった。唯一実行したのは、毎年の慰霊祭に「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませんから」と刻んだ慰霊碑に納めた「過去帳」に、原爆死没者氏名を記入し、死者の数を数えることだけだった。 被曝直後、広島と長崎に設立された「ABCC(原爆傷害調査委員会)」は米国学士院が設立した民間原爆調査機関とされていたが、その実態は原爆の破壊力や、医学的研究などのため、各分野の専門家1000名を動員したペンタゴン(米国防総省)直属の軍事機関だった。2つの被曝都市に巨大なカマボコ型の調査棟十数棟を建て、被曝者10万人を研究対象に特定し、年に2度ABCCに呼び出し、レントゲンと血液検査を強制したが、調査が目的であるため治療は一切しなかった。 50年代には、「現在、被曝者は完全に治癒し、認むべき影響は残っていない」と発表したが、被曝者が死亡すると遺体を提供させ解剖、膨大な資料をペンタゴンに直送し続けていたと言われる。 引自第28页
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