序章では、まず本論文の前提となる曹魏王朝成立史を研究する意義についての筆者の視角を提示した。それは、華北の一勢力に過ぎない曹魏がなぜ建前上統一状態を保つ後漢の後を承ける形で王朝を開くことができたのかという問題意識に集約できる。次に曹魏王朝史研究が従来の中国史研究の中でどのように位置づけられてきたかを整理し、それが曹魏王朝の創始に時代の画期を見るか否かをめぐる時代区分論争を中心として展開されてきたことを確認した。そのうえで曹魏王朝成立に関する先行研究の論点を回顧し、そこに見られた曹操偏重と禅譲儀式偏重の二傾向を指摘した。最後に、曹魏王朝成立の意義を理解するためには曹操の崩御から漢魏禅譲革命に至るまでの延康元年の政治史を研究する必要性を主張した。
第一章では、曹操没後に洛陽で起きた曹植擁立未遂事件を取り挙げ、その意義を論じた。具体的には、まず事件の概要を確認し曹植の擁立が臨終間際の曹操自身の遺志であったことを確認した。次に、曹操が何故かかる遺志を抱いたのかの理由を曹操政権時代の後継者問題に求め、建安一七年(212)以降曹操が一貫して曹植を太子に据えようとする意志を抱いていたことに起因するものであることを明らかにした。そして、当該事件の発生により当時鄴にいた曹丕が献帝の詔令が未だ下されていない状況下において独断で魏王位に即いたため、その地位の正当性には大きな問題が残ることを指摘した。
第二章では、曹操没後に様々な政治問題が発生した事を指摘し、曹丕政権が必ずしも曹操政権をそのまま引き継ぎ得たのではないことを明らかにした。具体的には、まず曹操時代の最大領域と政権構造を整理し、それが基本的に曹操を中心として形成された政権であったことを確認した。そのため、曹操の逝去により政権の中心を喪失したことで、青州兵・徐州兵の離散、「諸城守」への譙・沛出身者の任用、関中・河西地域における反乱、孫権の背叛といった政治上の諸問題が発生し、その結果、曹操時代の領域、構造が維持できなくなり、曹氏政権としての勢力が大きく減退しかねない事態に直面していたことを論じた。
第三章では、『隷釈』巻 19 に収める「魏大饗碑」についてその流伝、立碑場所、作者、碑の形態等の基礎的な情報の整理を行なった。その結果、該碑が唐代に重刻され清朝前期頃に逸したが拓本は最近まで残っていたこと、立碑場所が譙の東方の曹操の故宅のあった場所すなわち現在の亳州市にある魏武故里遺址に相当すること、曹植と衛覬が該碑の撰文を担当し、書丹は碑の篆額を鍾繇が、碑文を梁鵠がそれぞれ担当したこと等を明らかにし、「魏大饗碑」を研究史料としての利用に供する一助とした。
第四章では、第三章で行った「魏大饗碑」の整理を踏まえ、そこで扱わなかった碑文内容の分析を行い、そこに描かれた延康元年(220)七月に行なわれた大饗礼の意義について論じた。それによると、この大饗礼には六軍に対する講武、父老に対する敬老と呉、蜀、異民族との君臣秩序の構築など、政治上幾重にも重要な意義を有していたが、それらをまとめて概括すると、曹丕による劉邦の故事を踏まえた実質的な天下平定の宣言であり、自身が献帝から禅譲を受けて帝位に即くことを承認させるものであった。
第五章では、第一章から第四章までの考察を踏まえて、筆者の理解する延康元年政治史像を提示した。それは、曹丕が曹操没後に発生した諸問題を乗り越えてゆく過程であった。だが、曹丕は「遺虜」、「遐夷」という政治課題を設定してそれを自らの徳により解決したのだという現実を作り上げることで克服したのであり、諸問題を根本的に解決するものではなかった。曹丕がかかる手段を選ばざるを得なかった理由は、とりもなおさず曹丕自身の求心力の欠如にあり、漢魏禅譲革命は政権を結束させるための最終手段であった。
終章では、本論文の概要と論点を整理し、漢魏禅譲革命による曹魏王朝の創始は全く曹丕自身の政治的必要から行なわれた行為であり、禅譲革命という形式を採用したがために曹魏王朝はその成立時においてすでに致命的な弱点を有していたことを確認した。
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