ADHDやASDを病いと呼ぶのなら、「普通」も同じように病いだーー
「色、金、名誉」にこだわり、周囲の承認に疲れてしまった人たち。
「いいね」によって、一つの「私」に束ねられる現代、極端な「普通」がもたらす「しんどさ」から抜け出すためのヒント
●「自分がどうしたいか」よりも「他人がどう見ているか気になって仕方がない」
●「いじわるコミュニケーション」という承認欲求
●流行へのとらわれ
●対人希求性が過多になる「しんどさ」
●本音と建て前のやり取り
●社会のスタンダードから外れていないか不安
●ドーパミン移行過剰症としての健常発達
●親の「いいね」という魔法
「病」が、ある特性について、自分ないしは身近な他人が苦しむことを前提とした場合、ADHDやASDが病い的になることがあるのは間違いないでしょう。一方で、定型発達の特性を持つ人も負けず劣らず病い的になることがあるのではないか、この本で取り扱いたいのは、こういう疑問です。たとえば定型発達の特性が過剰な人が、「相手が自分をどうみているのかが気になって仕方がない」「自分は普通ではなくなったのではないか」という不安から矢も楯もたまらなくなってしまう場合、そうした定型発達の人の特性も病といってもいいのではないか、ということです。――「はじめに」より
1 有用 苦琴酒 2023-06-20 13:06:19 日本
作者的前提是,ADHD和ASD这些症状只不过是占少数的人格发达形式,有部分消极面但在另些方面表现出过人特质。如果这样,那么占多数而被认为是“正常”或“健全发达”的形式又何尝不具有病理的面相而对自身及周围人造成种种伤害。多亏这个分析,才意识到原来奋斗x和求赞魔是同一个病的昭和及平成版——正常病。只不过后期现代社会里小集团或曰参照群体的碎片化变更了自我确认的方式。但这也造成了sns地狱。处方的“有点多... 作者的前提是,ADHD和ASD这些症状只不过是占少数的人格发达形式,有部分消极面但在另些方面表现出过人特质。如果这样,那么占多数而被认为是“正常”或“健全发达”的形式又何尝不具有病理的面相而对自身及周围人造成种种伤害。多亏这个分析,才意识到原来奋斗x和求赞魔是同一个病的昭和及平成版——正常病。只不过后期现代社会里小集团或曰参照群体的碎片化变更了自我确认的方式。但这也造成了sns地狱。处方的“有点多动又如何”怎么感觉还是重复了「のりつつしらけ、しらけつつのり」的后现代主义哩 (展开)