日記は高野が20歳の誕生日を迎えた1969年1月2日から始まっている。学生運動・失恋・人間関係での葛藤と挫折が記され、自殺2日前の6月22日まで続いている。
1月
1月2日、二十歳の誕生日。自身の未熟さ、孤独であることへの認識の甘さを痛感し、「慣らされる人間でなく、創造する人間になりたい」「『高野悦子』自身になりたい」と決心する。
1月7日、京都に帰ってくる。
1月15日、当時の成人の日。「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」。
1月17日、学寮問題がエスカレートし、全共闘が中川会館を封鎖する。
1月22日、クラス討論に参加するが、大衆団交を「つるしあげ」としか感じることができず、会場を抜け出す。
1月下旬、封鎖解除と封鎖支持、どちらの立場をとるべきか悩み続ける。
2月
この頃から、京都市上京区河原町荒神口の京都市電停留所前にあったジャズ喫茶「シアンクレール」(正式な店名はひらがな書きの「しあんくれーる」)によく行くようになる。また、タバコと酒(主にウイスキー)の摂取量が増え始める。さらに、カミソリなどによる自傷行為も行われるようになる。
2月1日、クラスメイトから「君は代々木系か反代々木系か」と激しく問い詰められ、ショックを受ける。
2月2日、役割を演じ、自分を守るために、伊達眼鏡をかける。
2月5日、初めてパチンコ屋に入る。自分の殻を打ち破った、勇気ある行動だと感じる。
2月10日~2月12日、実家に帰省。
2月13日~2月14日、京都に戻ったあと、徹夜でバリケードに参加する。
2月18日、ニュースで存心館の再封鎖を知る。
2月19日、悩んだ末、「ハッキリした立場をとらないと、これからもズットこのまま駄目な状態になっていく」と感じ、学内で徹夜。
2月20日、デモの隊列に参加し、機動隊に投石するが、学外へ追い出される。
3月
3月、京都国際ホテルでアルバイトを始める。ウェイトレスたちの明るさに驚く。また、バイト先の主任に憧れを感じる。この頃から4月下旬ごろまではアルバイト中心の生活を送る。
3月30日、仕送りが他のウェイトレスの賃金より高いことに気づき、矛盾を感じる。
3月下旬、あえて孤独を選び、丸太町御前通にあるアパートに引っ越す。
4月
4月17日、ホテルでのストライキに対する主任の態度に幻滅する。
4月27日、アルバイト先の男性とスナックに行き、肉体関係を持つ。
4月下旬ごろから、デモや集会に積極的に参加するようになる。
5月
5月1日、教授会に反発し、授業料支払い拒否を決意する。メーデーに参加し、民青に殴られ怪我をする。
5月3日、男性に「デートする彼女がいるのでは」と感じる。
5月5日、権力に対する防衛として「田川治子」という名前を使うことに決める。
5月9日、男性に彼女がいることを知る。
5月12日、アルバイト先で男性を見かけ、訣別を決意する。
5月19日~5月24日、立て続けにデモ、バリケードに参加する。23日、機動隊との乱闘で負傷する。さらに、投石により捕まり、警察署に連行されるが、すぐに帰される。
5月30日、授業料不払いの件などについて両親と話し合うため、姉の下宿先のある東京へ行くが、結局、話はまとまらず、両親と喧嘩して姉の下宿を飛び出す。
6月
6月2日、男性をあきらめようとするものの未練が断ち切れず、孤独感にさいなまれる。
6月22日、最後の日記が書かれる。その2日後の6月24日未明、鉄道自殺[2]。
「旅に出よう」 [編集]
6月22日の最後の日記の最後に、「旅に出よう」で始まる詩が書かれている。2日後の運命を暗示するかのような象徴的な内容、その高い完成度などから、作品中でも特に印象に残る静謐な一篇とされている。
更多见http://www12.ocn.ne.jp/~chi0010/
內容
|
最新讨论 · · · · · · (全部)
連合赤軍統一公判 控訴審・東京高等裁判所《1985...(赠送绝望立可白)
連合赤軍統一公判 第一審・東京地方裁判所 《1...(赠送绝望立可白)
> 我来回应