内容简介 · · · · · ·
本书为日本战后著名的“无赖派”文学旗手坂口安吾的惊世代表作,由《魔鬼的无聊》、《我想拥抱海》、《直盯着人看的女人》、《行云流水》和《肝脏医生》5部短篇小说组成。作品主题大多揭露战争致使人类的堕落与放荡,体现了坂口安吾颓废而浪漫的“输家哲学”,就是宁为失败者,也不愿参与现实社会的残酷斗争。然而,他所谓的“堕落”,实际上指的是人要恢复本来面目。诚如旅日作家李长声所言:坂口安吾的极而言之剥掉了一切假面,跟着他耍一个无赖,便释怀了挫折与颓丧……即使在今天,坂口的作品依然能够“拉近”年轻的一代,令他们重新审视如何应对当今日益闭塞的时代。
作者简介 · · · · · ·
坂口安吾(1906-1955),本名坂口炳五,出生于日本新潟市的一个豪门家族,东洋大学印度哲学科毕业。1931年发表小说《风博士》和《黑谷村》,从此走上了文学创作之路。坂口的文学活动,最重要的时期是在战后。1946年,他发表了文艺评论集《堕落论》,指出“为了活下去,必须堕落”。他所谓的“堕落”,指的是人要恢复本来面目,这部作品影响了整整一代日本人。同年6月,他发表了代表作《白痴》。日本评论界认为这部作品是“《堕落论》的小说化”,成为“日本战后文学的样板”,坂口也一跃成为日本战后文学中“无赖派”的旗手,与太宰治、石川淳等齐名。坂口安吾性格叛逆浪漫,作品多呈戏谑及反叛色彩,有着颓废而又浪漫的输家哲学之美。其代表作还有《魔鬼的无聊》、《盛开的樱花林下》等。
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丛书信息
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魔鬼的无聊的书评 · · · · · · ( 全部 1 条 )
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それほど死ぬことを怖おそれながら、私は人の親切にすすめてくれる疎開をすげなく却しりぞけて東京にとどまっていたが、こういう矛盾は私の一生の矛盾であり、その運命を私は常に甘受してきたのである。一言にして云えば、私の好奇心というものは、馬鹿げたものなのだ。私は最も死を怖れる小心者でありながら、好奇心と共に遊ぶという大いなる誘惑を却けることができなかった。凡およそ私は戦争を呪のろっていなかった。恐らく...
2021-01-02 18:34
それほど死ぬことを怖おそれながら、私は人の親切にすすめてくれる疎開をすげなく却しりぞけて東京にとどまっていたが、こういう矛盾は私の一生の矛盾であり、その運命を私は常に甘受してきたのである。一言にして云えば、私の好奇心というものは、馬鹿げたものなのだ。私は最も死を怖れる小心者でありながら、好奇心と共に遊ぶという大いなる誘惑を却けることができなかった。凡およそ私は戦争を呪のろっていなかった。恐らく日本中で最も戦争と無邪気に遊んでいた馬鹿者であったろうと考える。
私は生き残るという好奇心に於ては彼等以上であった。たいがい生き残る自信があった。然し私はトコトンまで東京にふみとどまり、東京が敵軍に包囲されドンドンガラガラ地軸をひっかき廻し地獄の騒ぎをやらかした果はてに白旗があがったとき、モグラみたいにヒョッコリ顔をだしてやろうと考えていた。せっかく戦争にめぐり合ったのだから、戦争の中心地点を出外れたくなかったのである。これも亦また好奇心であった。色々の好奇心が押しあいへしあいしていたが、中心地点にふみとどまることという好奇心と、そこで生き残りたいという好奇心と、この二つが一番激しかったのである。死んだらそれまでだという諦あきらめはもっていた。
と言ったが、私は浪費せずにいられぬ男なので、酒がのめなくなり、女遊びもできなくなり、本でも読む以外に仕方がないから本を読んでいたので、
原形に綺麗きれいなものは何もない。我利我利がりがりの私慾しよくばかりで、それを組合とか団体の力で自然にまもろうとするようになる。
だから私は敗戦後の日本がむしろ混乱しうる最大の混乱に落ちて、精神の最大のデカダンスが来た方がいいと思った。中途半端な混乱は中途半端なモラルしか生みだせない。大混乱は大秩序に近づく道で、そして私は最大の混乱から建設までに決して過去の歴史の無意志の流れのような空虚な長い時間は必要でない、と信じることができたからであった。
働く者はみんな食える、貧乏はない、ということは此かくの如ごとく死の如く馬鹿ばか阿呆あほうの如く平穏であることを銘記する必要がある。人間の幸福はそんなところにはない。泥棒し、人殺しをしても欲しいものが存在するところに人間の真実の生活があるのだ。
あらゆる泥棒人殺しの跳梁ちょうりょうする外部条件を完備しておりながら、殆ど一人の泥棒もオイハギも人殺しもなかったのである。それで人々は幸福であったか。つまり我々は虚むなしく食って生きている平和な阿呆であったが、人間ではなかったのである。
完全な秩序、犯罪に関する限りほぼ完全な秩序が保れていた。愛国の情熱がたかまり、わいているようだった。なんという虚しい美であろうか。自分の家が焼けた。何万何十万の家が焼け、さして悲しみもせず、焼跡をほじくっている。横に人間が死んでいる、もう、振りむきもしない。鼠ねずみの屍体したいに対すると同様の心しか有り得なくなっていた。かように心が痲痺まひして悪魔の親類のように落ぶれた時がきていても、食うことができて、そしてとりわけ欲しい物もないときには、人は泥棒もオイハギもしないのだ。欲しいものはせいぜいシャツか浴衣ゆかたぐらいで、まるで自分の物と同じ気持でちょっと風呂屋で着かえて出てくるくらいのことはするが、本心は犯罪に痲痺し落ちぶれきっていながら、泥棒もオイハギもやらない。単なる秩序道徳の平静のみすぼらしさ、虚しさ、つまらなさ。人間の幸福はそこにはない。人間の生活がそこにない。人間自体がないのである。
もとより私自身が完全にその阿呆の一人であった。最も虚しい平静な馬鹿者だった。女を口説くどきもした。恋らしいものを語りもした。女自体が、どうせ戦争でめちゃくちゃになるのだと私よりもヤケクソに考えて、その魂は荒廃の最後のものにきておりながら、彼女はそれを気付かない。彼女はアイビキのときは晴着のモンペをきてきたが、その魂の荒廃は凡そ晴着には似合わぬものだ。
三尺後から私が歩いていることなどは平気であった。それが荒廃した魂の実相なのであり、虚しい平和の実相なのである。凡そ晴着などとは縁のない魂で、そして、明日の希望というものの一つのかすかな光の影の裏打も有り得ない。
私の毎日毎日の妙に熱のこもった読書は、その魂の読書であった。晴着のない魂に、然し、私はただ冷ひややかな鬼の目で、歴史というもの、人間の実相の歩いた跡を読んでいた。女と会い、抱きあう時も、冷やかな鬼の目だけで、その肉体をむさぼっているばかりであった。鬼はむさぼるだけだ。奇妙に情熱的ではあった。すると女の方がまた私よりも一そう情熱的で、冷やかであった。一そう荒廃した鬼であった。
私自身がギャングであった。私の魂は荒廃していた。私の外貌がいぼうは悠々と読書に専念していたが、私の心は悪魔の国に住んでおり、そして、悪魔の読書というものは、聖人の読書のように冷徹なものだと私は沁々しみじみ思い耽っていたのである。
悪魔というものは、ただ退屈しているものなのである。なぜなら、悪魔には、希望がなくて、目的がないのだ。悪魔は女を愛すが、そのとき、女を愛すだけである。目的らしいものがあるとすれば、破壊を愛しているだけのことだ。
私は全然無意味な人にオゴってやったり、金をやったり、品物をやったりする。そういう気持になったとき、その気持を満足させているだけのもので、底でこれぐらい突き放していることはないのである。これはまったく悪魔の退屈なので、あの青年に宿をかし得なかった如き、私は元来、時間的にやや永続する関係には堪たえられないという意味も根強いのであった。
戦争の場合だけではない。だいたいに荒君らが考えている人間への映像が甘すぎるのだと私は思う。つまり魂のデカダンスと無縁なのであり、人のことを考えるが、自分自身の魂と争うことがないのだと私は思った。先のことを考えても、本当に今の現実と争うこと、つまり現実と魂とが真実つながる関係がないのである。
私は女のハリアイのない微笑の上から、いつも荒君の歯ぎしりを思いだし、敵が上陸して戦争が始はじまってから、荒君がどんなことをやるか、おかしくて仕方がなかった。幸い上陸が行われず思いがけない結末がきて、荒君は予定通りの計画に乗りだしたけれども、この結末の方が偶然で、本当の現実は「石に噛りついても」生きられる性質のものであったかどうか疑問だと思っている。そして現実をむしろ夢想をもって眺めて、どんな卑劣なことをしても生きぬいてみせると悪魔の如く吠えることを好んだ荒君は、私にはハリアイのない女の笑い顔よりも却かえって現実の凄味や厳しさが感じられなかった。女のハリアイのない笑顔の中には、悪魔の楽天性と退屈とがひそんでいたように思う。
だいたい、あの戦争の荒廃した魂で、私に仕事のできる筈はない。書きかけの原稿を焼いた私は、私自身の当然な魂を表現していたのである。私はただ退屈しきった悪魔の魂で、碁にふけり、本を読みふけり、時々一人の女のハリアイのない微笑を眺めて、ただ快楽にだらしなくくずれるだけの肉体をもてあそんだりしていただけだった。
回应 2021-01-02 18:34 -
最后,病父受不了了,抓住园子,把她推倒,掀开她的屁股,乓乓地打,一直打,打到自己吐血、力绝而当场死亡,园子害自己的老爸因郁闷而死。 这场责打之激烈,也许就表现在结束生命的激烈方式上,甚至激烈到连邻居们都跑来观看的程度。在惊讶的众人面前,他用尽全力打着院子的屁股,然后咽下最后一股气。 震惊!父爱伟大!
2014-01-26 20:14
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叶若言 (除却我与月,天地万物无。)
尽管如此万事俱备,一切只处于为自己私人利益着想的状态,尽管回归如此完全的黑暗之中,或几乎没有小偷或强盗之类的事情发生,这是为什么呢?这是我最关心的事情,也是我最惊讶的事。我不得不这么想,这是因为虽然大家处于最低的生活水平,但是每个人都有得吃,于是产生了这种平静的秩序。另外,就是偷了钱,也没地方花钱玩乐,因此,就不会有小偷了。 有工作的人都有得吃,都不贫穷,我们需要将这种宛如死亡、愚蠢可笑的平静铭...2012-03-05 00:01
尽管如此万事俱备,一切只处于为自己私人利益着想的状态,尽管回归如此完全的黑暗之中,或几乎没有小偷或强盗之类的事情发生,这是为什么呢?这是我最关心的事情,也是我最惊讶的事。我不得不这么想,这是因为虽然大家处于最低的生活水平,但是每个人都有得吃,于是产生了这种平静的秩序。另外,就是偷了钱,也没地方花钱玩乐,因此,就不会有小偷了。 引自第10页 有工作的人都有得吃,都不贫穷,我们需要将这种宛如死亡、愚蠢可笑的平静铭记于心。人类的幸福,不在于此,人类的幸福生活在于那些就算要当小偷、要杀人也想要的东西所存在的地方。 引自第10页 我想我最大的问题就是没有找到那种“就算要当小偷、要杀人也想要的东西”。
回应 2012-03-05 00:01
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それほど死ぬことを怖おそれながら、私は人の親切にすすめてくれる疎開をすげなく却しりぞけて東京にとどまっていたが、こういう矛盾は私の一生の矛盾であり、その運命を私は常に甘受してきたのである。一言にして云えば、私の好奇心というものは、馬鹿げたものなのだ。私は最も死を怖れる小心者でありながら、好奇心と共に遊ぶという大いなる誘惑を却けることができなかった。凡およそ私は戦争を呪のろっていなかった。恐らく...
2021-01-02 18:34
それほど死ぬことを怖おそれながら、私は人の親切にすすめてくれる疎開をすげなく却しりぞけて東京にとどまっていたが、こういう矛盾は私の一生の矛盾であり、その運命を私は常に甘受してきたのである。一言にして云えば、私の好奇心というものは、馬鹿げたものなのだ。私は最も死を怖れる小心者でありながら、好奇心と共に遊ぶという大いなる誘惑を却けることができなかった。凡およそ私は戦争を呪のろっていなかった。恐らく日本中で最も戦争と無邪気に遊んでいた馬鹿者であったろうと考える。
私は生き残るという好奇心に於ては彼等以上であった。たいがい生き残る自信があった。然し私はトコトンまで東京にふみとどまり、東京が敵軍に包囲されドンドンガラガラ地軸をひっかき廻し地獄の騒ぎをやらかした果はてに白旗があがったとき、モグラみたいにヒョッコリ顔をだしてやろうと考えていた。せっかく戦争にめぐり合ったのだから、戦争の中心地点を出外れたくなかったのである。これも亦また好奇心であった。色々の好奇心が押しあいへしあいしていたが、中心地点にふみとどまることという好奇心と、そこで生き残りたいという好奇心と、この二つが一番激しかったのである。死んだらそれまでだという諦あきらめはもっていた。
と言ったが、私は浪費せずにいられぬ男なので、酒がのめなくなり、女遊びもできなくなり、本でも読む以外に仕方がないから本を読んでいたので、
原形に綺麗きれいなものは何もない。我利我利がりがりの私慾しよくばかりで、それを組合とか団体の力で自然にまもろうとするようになる。
だから私は敗戦後の日本がむしろ混乱しうる最大の混乱に落ちて、精神の最大のデカダンスが来た方がいいと思った。中途半端な混乱は中途半端なモラルしか生みだせない。大混乱は大秩序に近づく道で、そして私は最大の混乱から建設までに決して過去の歴史の無意志の流れのような空虚な長い時間は必要でない、と信じることができたからであった。
働く者はみんな食える、貧乏はない、ということは此かくの如ごとく死の如く馬鹿ばか阿呆あほうの如く平穏であることを銘記する必要がある。人間の幸福はそんなところにはない。泥棒し、人殺しをしても欲しいものが存在するところに人間の真実の生活があるのだ。
あらゆる泥棒人殺しの跳梁ちょうりょうする外部条件を完備しておりながら、殆ど一人の泥棒もオイハギも人殺しもなかったのである。それで人々は幸福であったか。つまり我々は虚むなしく食って生きている平和な阿呆であったが、人間ではなかったのである。
完全な秩序、犯罪に関する限りほぼ完全な秩序が保れていた。愛国の情熱がたかまり、わいているようだった。なんという虚しい美であろうか。自分の家が焼けた。何万何十万の家が焼け、さして悲しみもせず、焼跡をほじくっている。横に人間が死んでいる、もう、振りむきもしない。鼠ねずみの屍体したいに対すると同様の心しか有り得なくなっていた。かように心が痲痺まひして悪魔の親類のように落ぶれた時がきていても、食うことができて、そしてとりわけ欲しい物もないときには、人は泥棒もオイハギもしないのだ。欲しいものはせいぜいシャツか浴衣ゆかたぐらいで、まるで自分の物と同じ気持でちょっと風呂屋で着かえて出てくるくらいのことはするが、本心は犯罪に痲痺し落ちぶれきっていながら、泥棒もオイハギもやらない。単なる秩序道徳の平静のみすぼらしさ、虚しさ、つまらなさ。人間の幸福はそこにはない。人間の生活がそこにない。人間自体がないのである。
もとより私自身が完全にその阿呆の一人であった。最も虚しい平静な馬鹿者だった。女を口説くどきもした。恋らしいものを語りもした。女自体が、どうせ戦争でめちゃくちゃになるのだと私よりもヤケクソに考えて、その魂は荒廃の最後のものにきておりながら、彼女はそれを気付かない。彼女はアイビキのときは晴着のモンペをきてきたが、その魂の荒廃は凡そ晴着には似合わぬものだ。
三尺後から私が歩いていることなどは平気であった。それが荒廃した魂の実相なのであり、虚しい平和の実相なのである。凡そ晴着などとは縁のない魂で、そして、明日の希望というものの一つのかすかな光の影の裏打も有り得ない。
私の毎日毎日の妙に熱のこもった読書は、その魂の読書であった。晴着のない魂に、然し、私はただ冷ひややかな鬼の目で、歴史というもの、人間の実相の歩いた跡を読んでいた。女と会い、抱きあう時も、冷やかな鬼の目だけで、その肉体をむさぼっているばかりであった。鬼はむさぼるだけだ。奇妙に情熱的ではあった。すると女の方がまた私よりも一そう情熱的で、冷やかであった。一そう荒廃した鬼であった。
私自身がギャングであった。私の魂は荒廃していた。私の外貌がいぼうは悠々と読書に専念していたが、私の心は悪魔の国に住んでおり、そして、悪魔の読書というものは、聖人の読書のように冷徹なものだと私は沁々しみじみ思い耽っていたのである。
悪魔というものは、ただ退屈しているものなのである。なぜなら、悪魔には、希望がなくて、目的がないのだ。悪魔は女を愛すが、そのとき、女を愛すだけである。目的らしいものがあるとすれば、破壊を愛しているだけのことだ。
私は全然無意味な人にオゴってやったり、金をやったり、品物をやったりする。そういう気持になったとき、その気持を満足させているだけのもので、底でこれぐらい突き放していることはないのである。これはまったく悪魔の退屈なので、あの青年に宿をかし得なかった如き、私は元来、時間的にやや永続する関係には堪たえられないという意味も根強いのであった。
戦争の場合だけではない。だいたいに荒君らが考えている人間への映像が甘すぎるのだと私は思う。つまり魂のデカダンスと無縁なのであり、人のことを考えるが、自分自身の魂と争うことがないのだと私は思った。先のことを考えても、本当に今の現実と争うこと、つまり現実と魂とが真実つながる関係がないのである。
私は女のハリアイのない微笑の上から、いつも荒君の歯ぎしりを思いだし、敵が上陸して戦争が始はじまってから、荒君がどんなことをやるか、おかしくて仕方がなかった。幸い上陸が行われず思いがけない結末がきて、荒君は予定通りの計画に乗りだしたけれども、この結末の方が偶然で、本当の現実は「石に噛りついても」生きられる性質のものであったかどうか疑問だと思っている。そして現実をむしろ夢想をもって眺めて、どんな卑劣なことをしても生きぬいてみせると悪魔の如く吠えることを好んだ荒君は、私にはハリアイのない女の笑い顔よりも却かえって現実の凄味や厳しさが感じられなかった。女のハリアイのない笑顔の中には、悪魔の楽天性と退屈とがひそんでいたように思う。
だいたい、あの戦争の荒廃した魂で、私に仕事のできる筈はない。書きかけの原稿を焼いた私は、私自身の当然な魂を表現していたのである。私はただ退屈しきった悪魔の魂で、碁にふけり、本を読みふけり、時々一人の女のハリアイのない微笑を眺めて、ただ快楽にだらしなくくずれるだけの肉体をもてあそんだりしていただけだった。
回应 2021-01-02 18:34 -
最后,病父受不了了,抓住园子,把她推倒,掀开她的屁股,乓乓地打,一直打,打到自己吐血、力绝而当场死亡,园子害自己的老爸因郁闷而死。 这场责打之激烈,也许就表现在结束生命的激烈方式上,甚至激烈到连邻居们都跑来观看的程度。在惊讶的众人面前,他用尽全力打着院子的屁股,然后咽下最后一股气。 震惊!父爱伟大!
2014-01-26 20:14
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我不想让安子看到我的忌妒,所以,我付出了异常的努力。结果,我眼睛的颜色,一天比一天浑浊,渐渐积聚出诡异的光芒。 于是,我开始偶尔会做一些怪事。我走在路上,有些人的房子会架着梯子,修屋顶的会在屋顶上工作。我正好经过的时候,看到修屋顶的工人缓缓消失在屋顶的另一边时,我会突然抓起梯子,丢在地上,头也不回的走掉。 欠揍 感觉起来日本人可以一本正经的干可笑的事情,流着泪、绝望地打魂斗罗
2014-01-26 20:06
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新雨出版社 (2009月9月)暂无评分 8人读过
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1 有用 亲爱的猥琐猪 2013-10-28
蝴蝶其实一直羡慕着蚂蚁,魔鬼以无聊的怜悯期待大毁灭的彻底降临。《魔鬼的无聊》一篇比《在盛开的樱花林下》更能直接反映坂口安吾的颓废思想。在图书馆站着看完了这一篇,深感震撼。
1 有用 远子 2018-11-10
坂口安吾写的是无聊阴沉、邪恶的一面,故称之为魔鬼的无聊。有的地方深有同感。“我是一个常常一边想着要去神之国,却又钻入地狱之门的人。反正,我是一个就算出门时是以地狱之门为目的,却也不会忘记要去神之国的天真之人。”“像我这种人,跟原子弹这种尘世浩劫的现实紧密连接,实在没有那种让人漫步于清朗微风之下的才华。”回头读下《堕落论》。
0 有用 paradiso 2011-12-08
比之前读过的安吾选集都要好,《魔鬼的无聊》、《我想拥抱海》顿觉“这才有文学的样子嘛”,可惜《直盯着人看的女人》又开始耍贫嘴还占了半本书。 《行云流水》讲的是一个新女性云游男人中的屁股,很爆笑,《肝脏医生》笔调热血到好笑的程度但居然真有“泪腺决堤”之力,不愧是传说中的一篇
0 有用 [已注销] 2012-12-06
[SH/4105]I313.45/4163-3
0 有用 bookbug 2020-06-01
这本集子收有今村昌平电影名作《肝脏大夫》的小说原作
0 有用 R.E.I 2021-01-12
无赖派的文路似乎有既成套用体。“像我这样的人…” “被人看不起才觉得好…”“我真卑鄙…” 从太宰治到坂口安吾。自我的折磨,逃避,放纵,无奈,卑鄙。都可以用书名做个解释。读完这本,三岛有句话是对太宰治说的很正中我心。二人对纯粹的见解有很大不同。
0 有用 感情震颤? 2020-12-23
就像书中最后写的一样“这是一篇篇写在困惑的时代的故事”。
0 有用 比尔瞎飞 2020-12-17
,
0 有用 弥塞拉 2020-11-27
补标
0 有用 死春記 2020-11-05
女人的身体是一片柔软的海。/坂口安吾眼里的恶女形象可太迷人了,与其说“厌女”不如说坂口有受虐倾向吧。喜欢这本。