春日遅々
しかしながら、さういふ殆ど植物に近いやうな存在の裡にも、彼は一種異樣な幸福を見出しはじめるのである。 それは決して憐憫といつたやうなものではなかつた。それはさういふ人間的な感情より以上のものであつたし、又それ以下のものであるとも云へよう。それはそれらの動物たちへの自己沒入、かぎりもない同化によるのであつて、その無我の状態には全く劇的要素がなく、また人間的要素さへいささかも無いのだ。 「かういふ存在は、自分の隣人や、自分の親戚や、この國に土地を所有してゐる貴族の大部分のそれとは殆ど區別ができませぬ。それは幸福な、生き生きとした瞬間を全然もたないわけではないのです。そんな瞬間がどういふものであるかを、貴兄に理解せしめるのは容易ではありますまい。ここでもまた、言葉が自分には不足するのです。それは名前を持たぬもの、また疑もなくそれを持ち得ないもの、そしてただ花瓶の中のやうに、自分のまはりの目に見える事物の中に、溢れるばかりに生を注ぎ入れながら、そのときちらりと姿を見せるきりのものだからです。例を引いて見なければ貴兄に納得していただけないかと思ふので、つまらない例ですが二三擧げさせて貰ひます。例へば、如露だとか、畑に棄てられた鋤だとか、日向に寢てゐる犬だとか、みすぼらしい墓地だとか、不具者だとか、小さな農家だとかが、自分の靈感の場になれるのです。習慣になつてもうその上を何氣なしに目が滑つてしまふやうな、それらの事物やそのほかそれに似た數々の事物が、突然、思ひもよらないやうな瞬間に、それを表現するためには、一切の言葉があまりにも貧弱に見えるほどな、莊嚴な、感動すべき跡形を自分に刻みつけて行くのです。そして目の前にない事物の明瞭な像までが、全く不可解な方法でもつて、思ひがけず甘美に、自分をば神々しい感情で縁まで一ぱいに充たしてしまふことさへあるのです。」
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