うむ。
物の見方について
人間が自分を中心としてものを見たり、考えたりしたがる性質というものは、これほどまで根深く、頑固なものなのだ。
殊に損得に関わることになると、自分を離れて正しく判断してゆくことは非常に難しいことで、こういうことについてすら、コペルニクス風の考え方のできる人は非常に偉い人といっていい。
真実の経験について
英語や、幾何や、代数なら、僕でも君に教えることができる。しかし、人間が集まって、この世の中を作り、その中で、一人一人が、それぞれ自分の一生をしようって生きてゆくということにどれだけの意味があるのか、どれだけの値打ちがあるのか、ということになると、僕はもう君に教えることができない。
それは、君がだんだん大人になってゆくにしたがって、いや、大人になってからもまだまだ勉強して、自分で見つけてゆかなくてはならないことなのだ。
たとえば、絵や彫刻や音楽の面白さなども、味わってはじめて知ることで、優れた芸術に接したことのない人にいくら説明したって、わからせることは到底できはしない。殊に、こういうものになると、ただ目や耳が普通に備わっているというだけでは足りなくて、それを味わうだけの、心の目、心の耳が開けなくてはならないんだ。
まして、人間としてこの世に生きていることがどれだけ意味のあることなのか、それは君が本当に人間らしく生きてみて、その間にしっくりと胸に感じとらなければならないきことで、はたからは、どんな偉い人を連れてきたって、とても教え込めるものじゃあない。
だから、こういうことについて、まず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じることや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えて行くことだと思う。君が何かしみじみに感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもごまかしてはいけない。そうして、どういう場合に、どういうことについて、どんな感じを受けたかそれをよく考えて見るのだ。
もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれが立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、言われた通りに行動し、教えられた通りに生きてゆこうとするならばーーコペル君、いいか--それじゃあ、君はいつまで経っても、一人の人間になれないんだ。
「誰がなんと言ったってーーー」というくらいの心張りがなければならないんだ。
世間には、他人の目に立派に見えるようにと振る舞っている人が、ずいぶんある。そういう人は自分が人の目にどう映るかということを一番気にするようになって、本当の自分、ありのままの自分がどんなものなのかということを、つい、お留守にしてしまうもにだ。
僕は君にそういう人になってもらいたくないと思う。
人間の結びについて
人間はどんなものだって、一人の人間として経験することに限りがある。しかし、人間は言葉ということを持っている。だから、自分の経験を他の人に伝えることもできるし、人の経験を聞いて知ることもできる。その上に、文字というもにを発明したから、書物を通じて、お互いの経験を伝え合うこともできる。
そこでいろいろな人のいろいろな場合の経験を比べ合わすようになり、それを各方面からまとめ上げてゆくようになった。そうして、できるだけ広い経験をそれぞれの方面から矛盾のないようまとめあげていったものが、学問というものなんだ。だから、いろいろな学問は人類の今までの経験をひとまとめにしたものだと言っていい。そして、人類は野獣同様の状態から、今日の状態まで進歩してくることができたのだ。一人一人の人間がみんないちいち、猿同然のところから出直したんでは、人類はいつまで経っても猿同然だ。決して、今日の文明には達しなかったろう。
だから、僕たちは、できるだけ学問を修めて、今までに人類の経験から、教わらなければならないんだ。そうでないと、どんなに骨を折っても、そのかいがないことになる。骨を折る以上は人類が今日まで進歩してきて、まだ解くとこができないでいる問題のために、骨を折らなくては、うそだ。その上で、何を発見してこそ、その発見は人類の発見という意味を持つことができる。また、そういう発見だけが、偉大な発見と言われることもできるんだ。
--人間であるからには--貧しいことについて
そうだ。確かに間違ったことだ。人間であるからには、全ての人が人間らしく生きてゆかなくては、嘘だ。そういう世の中でなくては嘘だ。
偉大な人間とはどんな人間か--ナポレオンの一生について--
世間には、悪い人ではないのに、弱いばかりに自分にも、他人にも余計な不幸を招いている人は決して少なくない。
人類に進歩と結びがない英雄的精神は空しいが、英雄的な気迫を欠いた善良さも同じように空しいことが多いのだ。
人間の悩みと、過ちと、偉大さについて
人間は自分をあわれなものだと認めることによって、その偉大さがあらわれるほど、それほど偉大である。
人は自分自身があわれだと認める場合、それはすなわち偉大だあるということは、同様に真理である。
だからこういう人間の哀れさは、全て人間の偉大さを証明することである。
王位を奪われた国王以外に、誰が、その国王でないことを不幸と感じる者があろう。
人間が本来、人間同士調和して生きてゆくべきものでないなら、どうして人間は自分たちの不調和を苦しいものと感じることができよう。お互いに愛しあい、お互いに好意をつくしあって生きてゆくべきものなのに、憎しみあったり、敵対しあったりしなければならないなら、人間はそのことを不幸に感じ、そのために苦しむのだ。
人間がこういう不幸を感じたり、こういう苦痛を覚えたりするということは人間はそもそも憎み合ったり、敵対しあったりすべきものではないからだ。
また、つまらないものにこだわって、いろいろ苦労している人もある。 しかし、こういう人たちの憎しみや不幸は、実は、自分勝手な欲望を抱いたり、つまらない虚栄心が捨てられないということから起こっているのであって、そういう欲望や虚栄心を捨てれば、それと同時になくなるものなんだ。
人間の本当の人間らしさを僕たちに知らせてくれるものは、同じ苦痛に中でも、人間だけが感じる人間らしい苦痛なんだ。
一筋に希望をつないでいたことが無残に打ち砕かれれば、僕たちの心は目に見えない血を流して傷つく。優しい愛情を受けることなしに暮らしていれば、僕たちの心はやがて耐え難い渇きを覚えてくる。
しかし、そういう苦しみの中でも、一番深く僕たちの心に突き入り、僕たちの目から一番つらい涙をしぼり出すものはーーー自分は取り返しのつかない過ちを犯してしまったという意識だ。自分に行動を振り返ってみて、損得からではなく、道義の心から、「しまった」と考えるほどつらいことは、おそらくほかにはないだろうと思う。
しかし、コペル君、自分が過っていた場合にそれを男らしく認め、そに溜ために苦しむということは、それこそ天地の間で、ただ人間だけができることなんだよ。
僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうでなく行動することができたのに、と考えるからだ。それだけの能力は自分にあったのに、と考えるからだ。正しい理性に声に従って行動するだけの力がもし、僕たちにないのだったら、なんで悔恨、苦しみなんか味わうこちがあろう。
自分の過ちを認めることはつらい。しかし過ちをつらく感じるということの中に、人間に立派もあるんだ。
しかし、コペル君、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲み出してゆこうではないか?正しい道に従って歩いてゆく力があるから、こんな苦しみもなめるのだと。
「誤りは真理に対して、ちょうど、睡眠が目覚めに対すると、同じ関係にある。人間が誤りから目覚めて、蘇ったように再び真理向かうのを私は見たことがある。」
ーーーゲーテ
僕たちは、自分で自分を決定する力を持っている。だからこう誤りを犯すこともある。
しかし、
僕たちは自分で自分を決定する力も持っている。
だから、誤りから立ち直ることもできるのだ。